伊藤三時のいる書斎

生きるとは愛でることである。誰かの言葉です。

本の園、喪服、日記

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私の部屋は本の園である。
作業机の後ろにも横にも本棚があり、作業机そのものに付属している本棚にも本、とにかく本で溢れているのである。一時本を整理したが、それもまた無駄に終わり、溢れかえる本たちに囲まれて生活している。

本棚の中には白紙の本もある。ノートもある。

そのうち、気分でノートに日記を書いてゆくことにして三日目。届いた果物ゼリーを食べて、音楽を聴きながら進まない卒業制作を作る。
それだけの毎日になるかもしれないことを、なんとなく怖がる日々だ。

 

 ところで昨日のドレスを見て『喪服みたいだな』と思ったのは私だけだろうか。
もう少し部屋を片付けて、ちょっとしたポートレートを撮れたら楽しいだろうなと思う。小道具はたくさんあるので、それこそいろいろできたらいい。ブログがよく更新されていた時は声が出なくて何もできなかったが、今の私には『衣装』がある。

喪服に見えても、私が着れば喪服じゃない。着られるだけじゃないのが自分だと思いたい。今の自分に飽きたのなら、着替えればいい。

水出し珈琲の茶のような味わい

昨日の夜、水出し珈琲を作った。百五十グラムはある豆を使おうとしたら失くしてしまったのか出てこなくなってしまい、お目当ての豆ではないが中途半端に余ってしまった豆を使って作ってみたらこれがなかなかうまく出来た。

 


母は苦味のある珈琲が苦手だが、味見したところ苦味がメインで出てくる珈琲ではなかった。寧ろ、豆本来の味わいとして酸味や甘みを強く感じる。これは母にも好評だった。

 


アイスコーヒーはドスンとした苦めの味わいを楽しむものだ、と思う人も多いが、お茶のように飲みやすく、スッキリとして後に味が引かないものもなかなか良いのではないであろうか。こんなにもパッとしない天気でも、気分が晴れる水出し珈琲。なかなか良いものである。

 


何より、これから暑い。水出し珈琲を夜に用意しておけば、次の日の朝にはストレーナーを取り出して注ぐだけなのだからとても便利だ。水出し珈琲がない時用に珈琲を急冷するための金属容器も買いたいが、それはまた今度としよう。

 


水出し珈琲用に、既に粉にされている豆を今日ネットで早速買ってみた。届くのは七月になりそうだが、楽しみが増えた予感がする。

愛と『推し』とつぶやきと

『推す』という感情はなんだろう?『推される側の自覚』とはなんだろう?常日頃から考えている。


愛とは何かを考えて生きている身として、自分は愛を持って『推せる』だけの価値有る人間でいられているかどうか、を気にしてしまうことがある。本当ならば気にしなくて良いものを。

 


割と他人の目を気にしてしまう私にとっては、一切合切の情報は本当ならばない方がいい、自由に生きたいとそればかりを思っている。


というのも、SNS投稿を外部から指摘されるケースが多くなってきたからである。普段は反抗的にアンル自分も炎上は怖いので普通に対応してしまうのであるが、こういう場合はどう対応したら良いだろうかを自分で考えた結果、 SNSにて言語を一切投稿しないという考え方に至った。

というわけで私はブログをこうして更新している。ブログは有る意味私からは遠いので、インタラクティブというよりはファインアートに近い。私の中だと正直な話SNSではない。ので安心して更新出来るというわけである。

 

推す、とは、責任のない愛であると、ツイキャスに来てくれたリスナーの方が言っていたのを思い出す。責任のない愛ではなく軽めの好意だとしたらどうするだろう、色々考えている。

 

推される側の自覚、が私にはあるかはわからない。それこそSNSや人間を舐めていると思われても致し方ないと思うし、なんだかそんなに自覚を自覚出来ていない自分も怖い。

ただ、人間は冗談を言うしマウンティングだってする。だから相手の言うことが正しくないことも勿論ある。分かってはいるけれどいつも本気で受け取ってしまうのは考えものだと思う。

 


そろそろ、伊藤三時という名前を背負って生きてゆくこと、それ自体に自分は疲れ始めているのではないかと思うことがある。実際のところは別にそうでもなく、寧ろ頼って生きている部分が多いから辞めることはないのに。普通の人ならばここまで深くは考えないであろうに、残念ながら私は普通の人ではないので仕方ないと諦める他ないので有る。


今、私は推される立場にあるが、それから降りることもできるし、さらに上を目指すことだってできるだろう。どちらにせよ、何かを捨てて。

ハイベッドの上のラプンツェル その三 ファッションショー、巨大な食パン、そして宣伝

巨大な食パンが二切れも来た。

二切れも来たのはさすがにバグらしいが、母がこれを可愛いというので一つはリビングに置かれることになった。平和的解決である。

初め、届いた際にあまりにも箱がでかすぎたので(聞いて驚け、私の肩くらいの高さまであった箱が二つ届いたのである)本気で三角コーンが届いたのかと思った。開けた時にかなり安心した。

 

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試しに作業場とたまに化すベッドの上に置いてみたら、これがかなりいい。膝を伸ばして太ももの上にパソコンを置いて作業をするのにとても適している。ありがとう。

あと筋トレのマットみたいな使い方もできなくはない。ベッドの上だと不安定すぎるので、これはこれで。


全身鏡でファッションショーをした。いただいたTシャツに始まりいつの間にか『持ってるドレス全部着る』企画になりこれがなかなか楽しかった。宅コスの楽しみが多少わかったような気がする。

特に、着ることなく持て余していた黒いドレスと、緑のドレスに布を纏ったものが好評。ありがとうございます。

インドア生活は割と満喫できているラプンツェルこと私。ハイベッドの上と自室がどんどんいい環境になってゆく。良い。がそれでも外に出られないのはきつい。

というわけで一対一でオンラインで話せるリモートtenderを随時募集しております。
二週間自宅待機なので実質いつだって呼び出し放題。
Twitter @project_session までDMでお問い合わせくださいませ。

ハイベッドの上のラプンツェル その二

 

初めて会った時の印象が頭から離れないんですよね、と彼は言った。
六月二十七日の午前深夜のことである。高校時代の後輩と電話していた。電話しませんか、と言われて軽いノリで承諾を出すのは彼くらいである。深夜二時三十六分のことであった。その中の会話の一言である。
あの時の、高校時代の私は白衣で廊下を駆け、大きな荷物に大きな目標を掲げ止まらずに走っていた。そんな時期もあった、と懐古の思いでその言葉を心の中で反芻した。しかし当時だけが輝かしかったと言えばそうではない。私の輝かしかった頃はいつであろうか。むしろ小舞台での演劇を始めたりとかした時の方が輝かしかったと言えるであろう。今だってもちろん輝かしいが、これを邪魔するものは過去の栄光と環境この二つである。人間も、モンハンで言う環境生物であり、時にはモンスターであり、つまり何を言いたいのかといえば人間も環境のうちに入るので、置かれた場所で咲きなさいというのはかなり無茶なことなのである。

 

そういえば今日から二週間の自宅待機だが、それに合わせて日記が来たので日記を書いてゆくことにした。一ページ書き終わるごとに画像で内容を上げていこうと思う。日記には早速赤裸々なことを書いているがそんなものである。人生なんて。

 

人との縁なんて簡単に切れるもので、空白の二週間、これだけあればどれくらいの縁が切れているのか面白そうで仕方がない、と思うと同時に少しばかり寂しい。とりあえず部屋を掃除して積ん読を消費するくらいの気持ちでいれば良いであろうか。切れる縁あれば繋がる縁あり、それでいいと思いつつ。

ハイベッドの上のラプンツェル

久々に熱を出した。なんせ昨日は仕事が多かったし、熱が出ていなかったから雨やら低気圧のせいだと完全に思っていたら全然違った。でもメモは読めないし資料は分からないしで何やってるか自分でもわからなくなっていたので早退したかったのだが、バカなので仕事場で言い出すことが出来ずに普通に終業してしまった。

 


帰って熱を測って驚く。驚き過ぎてここで何故か躁転する。いつものことなのだが今回は特に元気だった。熱が上がれば上がるほどテンションが高いし、自らから放射されている熱いからと一時ほぼ全裸になり、なんなら何読んでも面白くなってしまい、熱を測ってはずっと笑っている。完全にキメてるテンションなのであった。脳みそ怖い。

 


病院に行く前にこういう時は保健所に相談する。幸い流行病ではないようなので普通に病院にかかることになった。一時期溶連菌も疑われたがそれもなかったようで、結局のところただの風邪だったようである。

 


仕事先(どこかは言わないけど)から二週間自宅待機を言い渡されたため、とりあえずコンビニで食糧を買い漁り切手を十枚買ったら今日の買い出しは終わりで、しばらくは自室で過ごすことになる。母も父もおらず食糧もない場合があるので、水だけ買い漁っておいた。とりあえず食べ物は我慢すればいいかと。食欲ないし。

 


さながらハイベッドの上で泥のように眠るラプンツェル状態で、やることは山積みだがとりあえず、みんなの手紙を待っている。皆が私に会えない間も思いくらいはすぐ届くように、外の世界のことが知りたくて待っている。

 


余談ですが二週間自宅待機のことを二週間自宅謹慎って言い間違えたらちょっと怒られました。今はとりあえず眠剤が欲しいです。買って貰えば良かった。

天国は琥珀色

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私は家で珈琲を淹れる。

淹れ方を変えてみたり違うフレーバーで三人分淹れて全て味見して、その中で牛乳に似合いそうな一つをカフェオレにする。カップはシンプルなものを揃えて、その日その日の豆に似合うものを考えて注ぐ。私の朝のルーティーンだ。

 


うちひとつのカフェオレは母の分。酸味も苦味も抑えて、砂糖はシュガースティック二本。

うち一人は父の分。苦味重視の味を好む。何も入れずブラックで。

残りは私の分で、酸味、甘みのあるものが好き。

好みが皆違うので、家には多くの珈琲豆がある。

 


そういえば、短歌の過去作を漁っていたら偶然こんなものが出てきた。

 


https://twitter.com/itousanzi_sg/status/1236613902441435136?s=21

 


本と珈琲と落ち着ける空間、それだけあれば天国にふさわしいと、ただそれだけを語る短歌。

 


人にはそれぞれ、天国がある。

私にはお気に入りの喫茶店があり、そこで珈琲を飲みながら本を読む休日が私の天国だった。今は自粛もあり行けていないが、今度は家でお菓子を作ったり、買ってきたお菓子に珈琲を合わせることが天国になった。

 


『天国』は人それぞれ違うことを最近よく考える。自分そのものがあれば完成する天国、他人に依存する天国、みんなそれぞれ違う。私は、私というキャラクターが持つ性質上、天国側になることがあるけれど、面白いと思う反面で辛いこともある。基本的にそれは身体の限界ではなく不安定な心の限界として現れる。止まりたくてもそれでも時は進んでしまうし、要求は現れる。求められるものの全てに対応できないことを、最近は申し訳なく思う。

 


話は変わるが、珈琲は人の感情や、こころまで抽出してくれる。

自分で淹れた珈琲を飲むと自分の気持ちが客観的に味として分かる。苛立ちのあるときはピリッとしたものに、疲れた時は疲れた味になってしまう。最近は美味しい珈琲が淹れられているかどうか正直分からない。けどそれでも私は珈琲を淹れる。家族は珈琲を美味しいと言ってくれるし、何よりも天国は琥珀色の中にあるのだから。

 


私の天国は琥珀色をしているのである。透き通った茶色から黒を交えた石の色。魔法の呪文も超越した科学もないこの世界で、珈琲は私の辞書では魔法だと記されている。みんなの天国は何色だろうか、琥珀色が少しでも混ざっていたなら嬉しい。